国民的ヒーローとして名高い、読売ジャイアンツの終身名誉監督の長嶋茂雄。
脳梗塞で倒れてから、公に姿を現すことはほとんどなくなりましたが、2021年の東京オリンピックでは開会式に登場して大きく話題となりました。
その姿は日本国民に大きな感動を与え、海外メディアは「日本が最も涙を流した瞬間」と報じたほど。
今回は、長年日本中から愛されている、長嶋茂雄についてまとめました。
長嶋茂雄の生い立ち
長嶋茂雄は1936年2月20日に、千葉県印旛郡臼井町で誕生。
戦直後の日本球界を代表するスター選手の大下弘や藤村富美男に憧れて、幼少期から野球選手を夢見ていました。
また、当時の関東在住者としては珍しく、阪神ファンだったのだとか。
真面目な両親の影響で、幼い頃から「途中で投げ出さずコツコツ物事を続ける性格だった」と語られています。
長嶋茂雄の学歴
長嶋茂雄は、中学校は臼井二町組合立中学校(現:佐倉市立佐倉中学校)に入学。
野球部に入部し、1年生からレギュラーとして活躍しました。
高校は県内トップの進学校、甲子園の出場経験もある千葉県立千葉高等学校へ入学するか迷ったそうです。
しかし、地元の千葉県立佐倉第一高等学校(現:千葉県立佐倉高等学校)に進学を決めました。
高校2年生から4番打者を担い、高校最後の大会地区予選で勝ち進んで南関東大会に千葉代表校として出場します。
試合には1回戦で敗れたものの、6回表に飛距離350フィート(約107m)の本塁打を放ち、野球関係者から注目を集めることとなりました。
スカウトされるも父親の希望で進学へ
その際に内野手のスカウトマンだった富士製鉄室蘭野球部のマネージャー、小野秀夫から声がかかり、富士製鉄室蘭への入社を勧められます。
しかし父親は進学を希望していました。
父親の希望を知った小野秀夫は、自らの先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学を勧めました。
そして父親は砂押邦信の教育方針に感銘を受け、長嶋茂雄に立教大学への進学するよう言います。
その頃、読売ジャイアンツからプロ入りのオファーもありましたが、父親はそのことを長嶋茂雄には知らせず、進学を理由に断ったそうです。
プロ入りを志願していた長嶋茂雄は、オファーを勝手に断られたことに激怒しましたが、父親の希望通り立教大学に進学しました。
長嶋茂雄の家族構成
- 父親:利さん
- 母親:チヨさん
- 長女:春江さん
- 長男:武彦さん
- 次女:藤枝さん
- 次男:長嶋茂雄
長嶋茂雄は4人兄弟の末っ子です。
長嶋茂雄の父親
父親の名前は利(トシ)さんといいます。
家は農家でしたが、土地は貸し出していた為、父親は農業はせずに、臼井町役場で収入役や助役をしていました。
長嶋茂雄は雑誌のインタビューで「短気ではなく、誠実な性格をしていた」と、父親の性格について答えています。
女形のスターだった
父親は若いころ、村芝居で女形を演じるスターだったそうです。
長嶋茂雄はプレー中に、手をひらひらと振る独特な仕草をしていました。
これは、歌舞伎役者の市川團十郎の所作を真似たものだと言われています。
このような魅せる野球をしてきたのも、芝居をしていた父親の影響があるのではないかと言われています。
父親は、長嶋茂雄が大学生になったばかりの1954年6月に他界しています。
長嶋茂雄の母親
長嶋茂雄の母親はチヨさんという名前で、「母は意志が強いしっかり者」だったと語られています。
兄の影響で小学4年生の頃に野球を始めました長嶋茂雄ですが、終戦後ということもあり野球道具が満足に揃えられませんでした。
その為、母親がビー玉と堅い布を使って野球ボールに見立てたものを手作りしました。
また、グラブも母親が手縫いで作ったものを使って野球に励んでいたそうです。
父親の死後、母親が長嶋家を支えた
長嶋茂雄が大学に入学して2か月後に、父親が亡くなったことによって、長嶋家は生活に困窮してしまいました。
長嶋茂雄は、家族の生活の為に「大学を辞めて働く」と母親に申し出ましたが、母親は「途中でやめるな」と猛反対します。
そして母親が行商して、長嶋家の家計を支えてきました。
長嶋茂雄と兄弟姉妹の関係
4兄弟の末っ子だった長嶋茂雄は、7歳年上の兄の武彦さんの影響で野球を始めました。
武彦さんは野球の練習や試合に、長嶋茂雄をよく連れて行ったそうです。
小学6年生の頃には、武彦さんが所属していた地元の青年野球団『ハヤテ・クラブ』に入団しています。
そして兄の下で、遊撃手として育てられたそうです。
長嶋茂雄の田園調布の自宅がすごい?
長嶋茂雄の自宅は、高級住宅が集まる閑静な街並みが特徴の田園調布にあります。
自宅の評価額は約6億円にものぼり、地下は1階、地上は2階の大豪邸といわれています。
昭和30年代から50年代は巨人の練習場が多摩川にあった為、そこからほど近い場所にある田園調布に引っ越したそうです。
しかし田園調布に引っ越したばかりの頃、新居の住所を思い出せず、試合後に「僕の家はどこですか?」とお手伝いさんに電話で尋ねたことがあったというエピソードも。
今では田園調布の豪邸は多くの人に知られているほど有名で、一時期は観光地のようにもなっていたそうです。
現在はオフィス兼自宅となっています。
長嶋茂雄の嫁との馴れ初め
長嶋茂雄は29歳の頃、当時22歳で五輪コンパニオンとして活躍していた西村亜希子さんと結婚します。
出会いは1964年10月、東京オリンピックが開催された頃でした。
当時王貞治とともに、『ON五輪を行く』という企画で、特派記者を務めていた長嶋茂雄。
企画の一つに五輪コンパニオンとの座談会というものがあり、そこで亜希子さんと出会います。
一目惚れからのスピード婚
亜希子さんに一目惚れした長嶋茂雄は、座談会で彼女の勤務時間帯を聞き出しました。
そして出勤前を狙って、デートの申し込みをする為に電話をかけたのだとか。
長嶋茂雄は亜希子さんに毎日のように電話をかけ、すぐに2人は交際。
猛烈なアタックの結果、11月には婚約を発表しました。
なんと、出会ってから40日のスピード結婚でした。
翌年の1965年1月26日には、渋谷区南平台のカトリック渋谷教会で結婚式を挙げます。
証人は、読売巨人軍代表取締役正力亨夫妻が務めました。
「男の職場に顔を出すな」という長嶋茂雄のモットーを忠実に守り、結婚してから長年家庭を守ってきました。
亜希子さんは64歳で、心不全で亡くなっています。
長嶋茂雄の子供は何人?
長嶋茂雄は亜希子さんとの間に、2男2女の4人の子供をもうけました。
メディアからは「ロイヤルファミリー」と呼ばれ、長嶋一家は高い知名度を誇りました。
長嶋茂雄の子供の現在
長嶋茂雄の4人の子供のうち3人は、メディアへの露出もある有名人です。
長男 長嶋一茂
元野球選手で、現在タレントとして活躍している長嶋一茂は、長嶋家の長男です。
長嶋一茂は小学校4年生の時に、地元のリトルリーグ『目黒東クリッパーズ』に入団し、野球を始めました。
しかし「長嶋茂雄の子供」ということで、常に世間から注目を集めてしまい、野球の練習や試合にはテレビカメラが付いてまわります。
練習後に友達と話しているだけでも記者が近づいてくるという状況は子供にとって耐え難いものでした。
自分の身の回りの環境のせいで、友達がいなくなってしまうのではないかと恐れた長嶋一茂は、1年ほどで野球チームから退団してしまいました。
高校で再び野球を始める
その後は陸上に目覚めますが、高校生の頃に再び野球を始めることになります。
きっかけは、父親の長嶋茂雄が巨人の監督の座を追われたことでした。
このことを受けて「オヤジのかたき討ちはオレがやる」と胸に決めたそうです。
そして高校へ進学後は野球部に入りました。
しかし小学校で一度野球をやめて以来、全く野球をしてこなかったため、最初はキャッチボールもままならなかったのだとか。
地道な練習を重ねていく内に、父親譲りの野球のセンスが目覚め、高校2年の頃には4番を打つほどまで成長しました。
大学では1年の頃からレギュラー入りし、4年生の頃には主将で4番打者をつとめています。
プロ野球の道へ進む
そして1987年に、プロ野球入りを果たしました。
ドラフト1位に選ばれて入団したヤクルトで5年間、そして父親が監督を務める巨人で4年間プレーしましたが、現役中に大きな成果はあげられず。
父親の長嶋茂雄に戦力外通告をされて、選手を引退しました。
その後は明石家さんまに勧められて芸能界入りし、俳優やタレント、スポーツキャスターなどマルチに活躍しています。
長女 有希
長女の有希さんは、長嶋茂雄の子供の中で唯一の一般人である為、情報はほとんどありません。
唯一の情報として、有希さんが長嶋茂雄の資産管理会社『オフィスエヌ』の役員を務めていたことが、2010年に週刊誌によって報じられたこともありました。
また 一部では、有希さんは障害を持っているのではないかという噂が出回っています。
こちらに関しては、「長嶋茂雄の子供が障害者施設に出入りしていたらしい」という信憑性の低い情報から広まっているようです。
次女 三奈
次女の長島三奈は、テレビ朝日に入社し、以降はスポーツキャスターとして様々な野球関連の番組に出演してきました。
代表的な番組は、全国高等学校野球選手権大会のダイジェスト番組『熱闘甲子園』でメインキャスターで、2000年を除いた1998年から2013年の15年間務めました。
現在は長嶋茂雄の資産管理会社『オフィスエヌ』の代表取締役を務めています。
次男 正興
次男の長島正興は元レーシングドライバーです。
安定した成績を残してきたことから、モータースポーツ界での評価も高かったと言われています。
現在は環境管理士などの資格を取得し、環境関係の仕事に従事しています。
他の家族が戸籍通りの長嶋の苗字を使用しているのに対して、次男の正興と次女の三奈は、「長島」を使用しています。
長嶋茂雄は不倫をしたことがある?
長嶋茂雄には過去に不倫をしていたという噂があります。
それは長嶋茂雄が脳梗塞で倒れた時のことでした。
倒れた場所が愛人宅で、愛人から長嶋家に電話で連絡が入ったのだそう。
しかし、愛人宅から長嶋茂雄が救急車で運ばれるのはまずいと考えた長男の長嶋一茂が、一度自宅まで長嶋茂雄を運ばせて、自宅から救急搬送したと言われています。
この時に時間をロスしたせいで、長嶋茂雄に重度の後遺症が残ってしまったとも言われています。
長嶋茂雄はいつ脳梗塞になった?
長嶋茂雄は2004年3月4日に脳梗塞で倒れました。
2004年8月15日には、アテネオリンピックで指揮を執る予定でしたが、短期間で回復しなかったため、見送られることになりました。
長嶋茂雄のリハビリ生活
長嶋茂雄のオリンピックへの思いは強く、アテネオリンピックで指揮を執る目前で倒れてしまったことは、本人にとってとても悔やまれたこととなりました。
一命を取り留めましたが後遺症は重く、右半身の麻痺に悩まされることに。
しかし、退院してからは毎日懸命にリハビリに励み、「東京オリンピックの聖火ランナーになる」という目標を掲げていたのだとか。
理学療法士の指導のもと、自宅にはトレーニング機器が揃えられ、毎朝歩行リハビリを行ったそうです。
リハビリは長嶋茂雄にとってルーティン化しており、10年以上もの間続けられました。
再び長期入院
しかし懸命なリハビリの最中、2018年に胆石が見つかり再び入院。
約半年もの間入院生活を送ったため、これまでリハビリで鍛えてきた筋力は衰えてしまいます。
2020年に開催予定だった東京オリンピックには、とても間に合わないと思われていました。
しかし、新型コロナウイルスの影響で東京オリンピックは1年延期され、長嶋茂雄にとって猶予ができました。
なんとしてでも聖火ランナーとして参加するために、更に集中的にリハビリを強化します。
遂に夢のオリンピックへ
そして2021年の東京オリンピックでは、開会式に登場して多くの人々を驚かせました。
当初は、開会式の様子は世界中に生中継されることから、万が一長嶋茂雄の身に異変が起きたときのことが考えられ、JOC関係者からは車椅子での登場が提案されたそうです。
しかし「自分の足で立たないと意味がない」と提案を拒否し、松井秀樹に支えられ、王貞治とともに聖火ランナーとして国立競技場を歩みました。
何度も絶望的に思われる状況から這い上がってきた姿に、日本のみならず世界中が感動した瞬間になりました。
コメント