兄弟姉妹揃って芸能人のタレントまとめ20選

芸能一家の二世タレント、兄弟姉妹タレントというのは、今も昔も芸能の世界では、よくある話です。

また、表に出ずに個人事務所の社長、役員、マネージャーに親兄弟がいるのも、芸能の世界にはよくある話です。

それでも、芸能の世界は人気商売。

二世だからと言って、兄弟姉妹に売れた人がいるからと言って、必ずしもその兄弟姉妹が売れるとは限りません。

芸能のファンは気まぐれですので、今も昔も出ては消える方々も、また多くいることも確かです。

兄弟姉妹共に人気者になり、多くのファンに支えられ、長い間、芸能の世界の一線で活動を続けることは、なかなか難しいことです。

今回は兄弟姉妹揃って芸能人のタレントまとめ20選、調べてみました。

森泉 森星

祖母は高名なファッションデザイナーの森英恵、祖父はハナヱモリグループ会長の森賢。

父親はハナヱモリ元社長の森顕、母親はイタリア系アメリカ人の元ファッションモデル、森パメラ。

そんなファッション界のサラブレットとして、1982年に生まれた森泉と、1992年に生まれた森星。

二人は5人兄弟姉妹です。

  • 長兄:会社社長
  • 次兄:ファッションデザイナー
  • 長女:森泉
  • 次女:元モデルでファッションプロデューサー
  • 三女:森星

表参道生まれの森泉は、慶應義塾大学中等部卒業後アメリカ留学を経験。帰国後、服飾の専門学校を経由し、クラーク記念国際高校卒。

2002年にファッションモデルデビューし、カリスマモデルとして、パリ・クレクション、社交界にもデビュー。

青山生まれの末娘の森星は姉と違い、慶應義塾大学中等部、慶應義塾女子高等学校、慶應義塾大学文学部を卒業。

大学在学中にはモデルの仕事もこなしてました。

姉の森泉は22歳頃より、ファッションモデルだけでなく、テレビタレントとしての活動も開始。

森泉は、芸能の世界でも「セレブ&面白キャラ」で人気者になり、10歳年下の森星が慶應大在学中、ファッションモデルとしてデビュー後、テレビの共演も増えました。

そんな森泉も2018年、自営業の一般男性と結婚。

36歳で第1子女児出産を報告してます。

松田龍平 松田翔太

俳優の松田優作(享年40歳)の2度目の奥様、女優の松田美由紀との間に生まれた松田龍平と松田翔太。

松田龍平は1983年生まれ。

松田翔太は1985年生まれ。

二人の妹の、元女性タレントの松田ゆう姫が1988年生まれ。

父親の松田優作は1989年に他界してるので、お三方とも父親の記憶は、かなり薄いと思われます。

松田龍平も松田翔太も、少年時代はサッカーをやっており、短期間とはいえ、イタリアに海外留学経験があります。

最初に映画デビューしたのが兄の松田龍平で、16歳で大島渚の遺作になった1999年の「御法度」。

当時は父・優作の子供というだけで、話題だった松田龍平でしたが、経験を重ねる度、独力で実績を重ねていきます。

松田龍平は、弟の松田翔太が2006年、「陽気なギャングが地球を回す」で映画デビューした頃には、既に自分の力で、役者として確固たる地位を築いてました。

松田翔太デビュー時は、父・優作死去後、17年も時間が経っていたので、松田優作二世というより、若い世代には松田龍平の弟として注目されたようです。

松田翔太も2008年、NHK大河ドラマ「篤姫」で14代将軍徳川家茂役を演じ、更なる注目を集め、人気を確立。

2015年、松田翔太は、CM総合研究所が発表した「2014年度CM好感度ランキング」の男性部門で、堂々!第1位を獲得。現在に至ってます。

柄本佑 柄本時生

柄本佑は、俳優の柄本明を父に、女優の角替和枝を母に1986年に生まれ、弟の柄本時生は1989年に生まれてます。

柄本佑、柄本時生が生まれた頃、既に父・明は確固たる俳優の地位を築いていたので、金銭的な苦労とは柄本家は無縁だったと思えます。

現在息子は二人とも役者です。

柄本佑は両親の影響で映画、演劇に興味を持ち、子供の頃より、映画監督になりたかったそう。

柄本佑は、和光高校在学中、映画「美しい夏キリシマ」のオーディションに合格。

芸能活動を開始しながら、2005年には早稲田大学芸術学校空間映像科に進学。

俳優と学生をやりながら、学内では短編の自主制作映画も手掛けており、かなり恵まれた環境で育っています。

柄本時生は、兄と違いプロ野球選手が夢の野球少年だったそうで、幼年期、少年時代、特に俳優、役者になりたいという意識はなかったそうです。

2003年、既に高身長(180cm超え)で高校生だった柄本佑には、小学生役のオーディションは無理があるので、弟の中学2年生だった柄本時生に話しを回したそう。

小学生役ということもあり、何もできないのが監督に評価され、柄本時生はオーディションに合格。2005年「すべり台」で俳優デビュー。

結果的に、両親を俳優にもつ俳優兄弟が、こうして誕生しています。

広瀬アリス 広瀬すず

広瀬アリスは1994年、広瀬すずは1998年、静岡県で生まれてます。

広瀬アリスは2009年、15歳の時に女性ファッション雑誌「セブンティーン」の専属モデルオーディションに応募。

以降、専属モデルとして芸能活動を開始します。

2012年、姉、広瀬アリスのイベントに同行してた妹の広瀬すずも、「セブンティーン」の専属モデルとしてスカウトされ、史上初めて姉妹で専属モデルとなりました。

また、2015年3月号の「セブンティーン」の表紙を、広瀬アリス、広瀬すずの姉妹が飾ったのも、「セブンティーン」史上初の快挙でした。

広瀬アリスは2010年より、広瀬すずはモデルデビューした2012年より、タレント、女優活動も開始。

2019年9月現在、24歳の広瀬アリス、21歳の広瀬すずはテレビドラマ、映画、CMと、姉妹揃って引っ張りだこの人気者になってます。

2019年5月の雑誌「週刊ポスト」は、広瀬アリス、広瀬すずのこの姉妹人気を、「昭和顔」と「平成顔」の姉妹争いと報じました。

先に人気になった広瀬すずは平成生まれの「昭和顔」なので、モンペも似合えば80年代っぽさもある。

一方、広瀬アリスは、モデル的な美しさの「平成顔」なので、昭和を舞台にした朝ドラには合わなかった。

今後は「平成顔」の姉、広瀬アリスのほうが、新たな代表作に出会える可能性も、伸びしろもあるかもしれないと分析。

広瀬アリス、広瀬すずの動向は、これからも目が離せないようです。

石田ゆり子 石田ひかり

石田ゆり子は1969年、石田ひかりは1972年、共に東京で生まれてます。

日本郵政勤務の父親の転勤で、石田ゆり子は中学生時代、石田ひかりは小学生時代に台湾に住んでいたそうで、幼少の頃から毎日やっていた水泳を、台湾でも継続。

台湾のナショナルチームに所属していたほど、水泳選手として将来を嘱望されてたようですが、過酷なトレーニングと、学校と水泳の日々に、精神的に疲弊してたそう。

日本に戻ってきた時、3歳年が違いますが、ほぼ同時期に、石田ゆり子は自由が丘で、石田ひかりは二子玉川で、別々に芸能プロダクションからスカウト。

石田ゆり子は、スカウトされた時「これでやっと陸に上がれる」と、水泳選手であることから解放されたのが嬉しかったと、2017年のインタビューで述べてます。

芸能界デビューは妹の石田ひかりが先で、1986年、テレビドラマ「妻たちの課外授業II」で女優デビュー。

石田ゆり子は翌1987年、全日空の沖縄キャンペーンガールに選ばれ、まず最初はモデルとしてデビューしてます。

美人姉妹として注目された二人は、ティーンエイジャーだった事もあり、アイドル的な人気者になりましたが、スカウトされたばかりの二人は、芝居は素人。

水泳と違い、何のレッスンもトレーニングもないまま、撮影現場に放り込まれ、厳しい現場では様々な苦労があったようです。

そんな石田ゆり子と石田ひかりは、アイドル人気になっても学業もしっかり継続しており、石田ゆり子は女子栄養大学短期大学部を卒業。

石田ひかりも亜細亜大学法学部を卒業後、二松學舍大学大学院文学研究科国文学専攻博士前期課程(修士課程)修了。

アイドル時代、その人気に溺れ流されることのなかった二人は1999年、個人事務所「風鈴舎」を設立。

姉の石田ゆり子が社長に就任。

石田ゆり子も、石田ひかりも、今や中堅からベテラン女優の域に達し、テレビ、映画にと活躍してます。

桑名正博 桑名晴子

桑名正博は1953年、1830年創業の廻船問屋「桑文」(後に・桑名興業)の7代目跡取りとして生まれ、1956年に妹の桑名晴子が生まれてます。

桑名正博は1970年、高校中退後10代でアメリカ・サンフランシスコへ渡り、翌1971年帰国。ファニー・カンパニーを結成。

ファニー・カンパニーは1972年、レコードデビュー。

一部のロックファンには高い評価を得ましたが、当時のロックバンドが皆そうだったように、一般的に売れることなく解散。

ソロになって、1979年、化粧品会社のキャンペーンソングとして発表された「セクシャルバイオレットNo.1」は、チャート1位を獲得する大ヒットを記録。

妹の桑名晴子も、その前年1978年にレコードデビュー。

桑名晴子は大きなヒット曲はありませんでしたが、コンスタントにレコードを発売。

地道な活動が高く評価され、兄の桑名正博共々この時期、人気を得ました。

桑名興業の7代目跡取りでもある桑名正博は、父親の没後の1990年、東京から出身地の大阪に拠点を戻し、2000年に桑名興業社長に就任。

しかし桑名興業は、バブル崩壊の煽りを受け危機的状況。

桑名正博が引き継いだ時には、既に手遅れで、700坪の豪邸を売り払っても立て直しがきかず倒産。

2012年10月、59歳の他界した桑名正博の晩年の音楽活動は、商業的なものとは無縁。

長年、積極的に公表せず続けていた、社会貢献活動の一貫のライブ中心で、スタジオレコーディングは1996年が最後になってます。

妹の桑名晴子も2016年、シュガーベイブの「Down Town」、大瀧詠一の「夢で逢えたら」のカヴァーCDを最後に、新譜は発表しておりません。

が、ライブ活動、イベント参加など、音楽活動は現在も継続、根強いファンに支持されています。

道端カレン 道端ジェシカ 道端アンジェリカ

アルゼンチン人の父と日本人の母親の間に生まれた、道端カレン、道端ジェシカ、道端アンジェリカの美人三姉妹。

その道端三姉妹が、今のような芸能活動をする元々のきっかけは、1979年生まれの長女、道端カレンの15歳時の決断。

福井県在住だった道端カレンは、世界最大級の新人モデルの登竜門、「THE LOOK OF THE YEAR」日本代表オーディションに応募。

選出され、道端カレンは中学3年の夏にスペインの世界大会に出場。

道端カレンは以後、モデルとしての活動を開始、中学卒業後、単身上京。

モデルとして大活躍。

これにより、幼少時より姉の道端カレンとともに、地元福井の子供服店のパンフレットにモデルとして活動。

1984年生まれの妹の道端ジェシカも上京。

道端ジェシカは、姉の道端カレンの所属するモデルエージェンシーに誘われ、1997年、弱冠13歳でモデルデビュー。

まだ中学生だった道端ジェシカのモデルデビューのため、道端家は家族で上京。

更に1985年生まれの、末娘の道端アンジェリカも、姉二人同様モデルとして2013年よりモデルとして活動。

三姉妹によるモデル業を、道端姉妹は開始。

人気を博します。

時は流れ2019年9月現在、長女の道端カレンは未婚で二児の子供のシングルマザー。

三女の道端アンジェリカは、2017年韓国の一般男性との結婚、2018年第1子出産を発表してます。

中川家

兄弟漫才師というのは、その昔から多々おりましたが、2019年現在、トップ兄弟漫才師は「中川家」と言って、異論のある方はいないでしょう。

中川家の兄、剛は1970年12月生まれ、弟の礼二は1972年1月生まれですから、学年は1つ違いで同じ小中学校に通っていたことになります。

中川家は子供頃からなんば花月、うめだ花月に通っていた、漫才好きな兄弟でしたが、普通に高校卒業後、勤め人になります。

漫才師の夢が捨てきれなかったのか?、剛が、リコーで優秀な営業マンをやってた礼二を誘い、1992年、吉本興業の大阪NSCに入学。

勤め人をやめてしまいます。

在学中から才能を発揮した中川家は、1995年には早くも上方漫才大賞新人賞を受賞。

翌1996年には、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞など、デビュー直後から高い評価を受けています。

が、近年のインタビューで、中川家二人の生活が一気に変わったのは、2001年の第一回M-1グランプリで優勝した次の日から、と述べてます。

NGKで漫才やって、近くの食堂で食事して帰るだけの日々が、今までテレビで見ていた番組に10本、20本と出ることになり、毎日が取材ラッシュ。

今まで、会う女性と言えば女性漫才師だけだったのに、女優があちらから話しかけてくるようになるほど、一夜で人生が激変したそうです。

そんな中川家の二人も、今やベテラン漫才師、大御所なのは、誰もがご承知の通しです。

五月みどり 小松みどり

姉の五月みどりは1939年生まれ、妹の小松みどりは1949年生まれで、年齢差は10歳ありました。

19歳でレコードデビューした五月みどりは、暫くはヒットに恵まれませんでしたが、1961年の「おひまなら来てね」が大ヒット。

以降、ヒット曲を連発、NHK紅白歌合戦にも1962~1964年まで3年連続出場の、人気歌手の仲間入りを果たします。

人気絶頂の1965年、五月みどりは結婚引退。

レコード会社は五月みどりの後釜にと、妹の小松みどりをスカウト。

小松みどりはトントン拍子で、1967年にレコードデビュー。

五月みどりが着物姿で歌っていたので、小松みどりもそのスタイルを、事務所とレコード会社の方針で踏襲。

小松みどり本人は、周りの同世代の女性歌手は皆ミニスカート。

でも自分だけ着物姿なので、17歳なのに30歳ぐらいに見られ、とても嫌だったと後年述べてます。

しかし、着物姿だけでなく見た目も大人びた色気のある小松みどりは、事務所とレコード会社の思惑通り、美人歌手として一躍人気者になりました。

1971年に五月みどりが離婚、歌手復帰してからは、美人姉妹歌手として、妹の小松みどりもマスメディアで再三取り上げられ、人気に拍車がかかります。

また、1945年生まれの元歌手でプロボウラーの西条正明は、人気の五月みどりの弟、小松みどりの兄という事で、1970年代前半のボウリングブーム期、3人は時の人。

西条正明が、女子プロのトップボウラー、須田開代子と結婚した1974年頃(のちに離婚)、3人の人気はピークを迎えました。

その後、赤坂でクラブ経営も始めた小松みどりのマスメディアへの露出は減り、ボウリングブームが終焉した西条正明の名前も、聞かれなくなりました。

五月みどり一人だけ、3度の離婚を経験しても尚、積極的にテレビ番組へも出演し続け存在感を見せつけ、現在に至ってます。

高嶋政宏 高嶋政伸

高嶋政宏は1965年、高嶋政伸は1966年、俳優の高島忠夫、宝塚のトップスター寿美花代の間に生まれました。

高嶋政宏、高嶋政伸は共に成城学園中高、そして大学とすすんでおり、経済的には何一つ不自由のない、芸能一家のサラブレットとして育ってます。

が、高嶋政宏が生まれる1年前、高嶋家は長男を、当時の家政婦に殺害され、これは当時、社会を震撼させた事件でした。

なので戸籍上は、高嶋政宏は高嶋家の次男、高嶋政伸は三男となっております。

高嶋政宏は大学在学中の、1987年に「トットチャンネル」で映画デビュー。

この後の同年上映「BU・SU」の出演含め、高嶋政宏はいきなり!同年の日本アカデミー賞、ブルーリボン賞、キネマ旬報ベスト・テン等の新人賞を受賞。

また、高嶋政宏はは、全国ネットのNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」に出演したこともあり、映画ファンだけではなく、全国のお茶の間にまで、人気が浸透。

弟の高島政伸は、父と兄の付き人を経て、1988年に芸能界デビューしており、二人は高島忠夫の二世ということで、この当時、話題沸騰でした。

しばらくは父、高島忠夫のイメージもあってと思われますが、高嶋政宏も高嶋政伸も、二枚目、好青年、おどけた二枚目半の出演作品が殆どでした。

が、高嶋政伸は2011年、マスメディアを騒がせた泥沼の離婚劇以降、悪役が増え、今までとは違う演技を見せています。

時も流れ、高嶋政宏、高嶋政伸も2019年現在、50歳を超え、中堅からベテラン俳優になり、更に演技に磨きがかかっているようです。

鈴木聖美 鈴木雅之

鈴木聖美は1952年、鈴木雅之は1956年、東京は大田区大森に生まれてます。

父親が経営する旋盤の町工場で、鈴木雅之は高校中退後働いています。

鈴木雅之のシャネルズがレコードデビュー、ヒットしなければ、鈴木聖美もデビューはなかったです。

鈴木雅之は1975年にシャネルズを結成しますが、レコードデビューは1980年と時間がかかっており、デビュー当時、メンバーは皆生業を持っていました。

1970年代はフォーク全盛時代で、一部にはハードロックバンドも売れないまでもありましたが、シャネルズのようにR&B、ソウルをやるバンドは希少でした。

なのでレコードデビュー前から、一部業界でシャネルズは評判をよんでおり、リーダーの鈴木雅之だけは、大瀧詠一のアルバムに参加したりしておりました。

1978年、YAMAHA主催の「イーストウエスト」に出場したシャネルズは、優秀グループに選ばれ、一部で更に!脚光を浴びます。

前年の「イーストウエスト」で入賞した、サザンオールスターズが1978年にレコードデビュー。

デビュー曲の「勝手にシンドバッド」をヒットさせたことにより、シャネルズにもレコードデビューの大きなチャンスが訪れます。

当初はパイオニアのラジカセ「ランナウェイ」のCMソングとして、CM用に1コーラスだけ使用され、お茶の間で流れると瞬く間に評判となりました。

再びフルコーラスでレコーディングし直し、「ランナウェイ」名義で発売したところ、110万枚売り上げの大ヒット。

以降、シャネルズは顔を黒く塗ってるビジュアルも大人から子供まで受け、お茶の間の人気者になり、途中グループ名をラッツ&スターに変更後もヒット曲を連発。

人気絶頂のシャネルズのライブに、ゲスト出演した鈴木雅之の姉、鈴木聖美の歌唱力が、井上忠夫ほか関係者の間で評判を呼び、鈴木聖美デビューのお膳立てができます。

まず、シャネルズのレコーディングにゲスト参加後、1987年、鈴木聖美は「シンデレラ・リバティ」でソロレコードデビュー。

「シンデレラ・リバティ」の作詞は、旧姓山口百恵、三浦百恵なのも、当時は話題になり、同年シャネルズとの共演「ロンリー・チャップリン」が大ヒット。

鈴木聖美も、シャネルズ同様、人気歌手の仲間入りを果たしました。

岩崎宏美 岩崎良美

岩崎宏美は1958年、岩崎良美は1961年に、東京は江東区深川に生まれています。

父親は、深川の木場で、木材機械輸入販売会社の経営者だったので裕福だったのでしょう。

岩崎宏美は私立の成城学園初等学校入学の頃から、歌のレッスンを開始。

中学生になった岩崎宏美は、同い歳の森昌子のデビューに刺激され、1974年の中学3年時、森昌子と同じ視聴者参加型歌手オーディション番組「スター誕生!」に応募。

見事、決勝大会に進み最優秀賞に輝き、1975年レコードデビュー。

シングル第二弾の「ロマンス」が大ヒットし、同年、NHK紅白歌合戦初出場。

以降14年連続出場するほど、人気歌手になりました。

妹の岩崎良美も、姉と同じ成城学園し、歌のレッスンで松田敏江に師事。

姉の岩崎宏美の歌謡芸能の世界での活躍に、岩崎良美も芸能界入り志望が強くなり、松田敏江の後押しもあって高校2年時、1978年に時代劇で芸能界デビュー。

1980年には、待望の歌手デビューも果たしております。

岩崎良美は岩崎宏美の妹として、当然注目されますが、歌唱力も人気も抜群の姉、岩崎宏美と比較される事もあり、精神的には何かと苦労があったようです。

岩崎宏美も岩崎良美も、その後は歌手だけでなく女優としても長年活躍。

私生活では二人とも離婚歴があり、2019年9月現在は共に独身のようです。

荻野目慶子 荻野目洋子

荻野目慶子は1964年、妹の荻野目洋子は1968年に生まれてます。

荻野目慶子は幼少時代より女優に憧れ、12歳で劇団ひまわりに入団。14歳で舞台女優として芸能界デビュー。

1980年の映画「海潮音」の主役で、映画関係者に高く評価されます。

1983年、映画「南極物語」で一般的にも知られ、アイドルとして人気に。

南極物語」は、フジサンケイグループの大々的な宣伝に加え、文部省特選作品になったことも、若手女優だった荻野目慶子の知名度を上げることに貢献。

荻野目洋子は更に、NHK教育番組の「YOU」での、糸井重里との司会者コンビが、知的な清純派イメージを多くのファンに抱かせ、更に人気者になりました。

姉、荻野目慶子とともに子供の頃より劇団ひまわりに入団してた荻野目洋子は、小学生時代より芸能活動をしており、1984年にはレコードデビュー。

人気の荻野目慶子の妹として、荻野目洋子の地名度は一気に上がります。

しかし、1990年、荻野目慶子の当時の恋人である映画監督の河合義孝が荻野目慶子の自室で自殺。

これにより荻野目慶子は、河合義孝と1985年頃から交際していたことが発覚。

更に河合義孝に妻子がいたことで、知的な清純派のイメージが完全に崩れます。

更にその1年後、荻野目慶子は、こちらも映画監督の巨匠、深作欣二との不倫関係が発覚。

イメージは完全にダーティーになってしまいました。

が、深作欣二監督の映画「いつかギラギラする日」での、今までとは全く異なるキャラクターを演じた荻野目慶子は、女優として再評価されます。

更に1992年には、自殺した河合義隆が生前に撮影した、荻野目慶子のヌード写真集が発売され大ヒット。

今までとは違う意味で、人気が復活しました。

妹の荻野目洋子は、2001年に結婚。2児の母として子育てに専念。

暫くは芸能界から離れておりました(2019年現在、復帰)。

姉の荻野目慶子も2012年年末、都内に複数のクリニックと医薬品会社を経営する医師と結婚(初婚)。

映画、ドラマ出演を継続し現在に至ってます。

石野真子 石野陽子

1978年、レコードデビューした石野真子は、プロダクションの強力なバックアップもあり、一躍人気アイドルになりますが、レコード売り上げは思いのほか伸びず。

オリコントップ10に入り曲はなくとも、石野真子は抜群のアイドル人気で、1979~1980年にNHK紅白歌合戦に連続出場。

人気絶頂の1981年、石野真子は長渕剛と婚約。

1982年の結婚を機に、芸能界を引退するも、1983年には離婚。

芸能界復帰してます。

妹の石野陽子はこの2年後の1985年に、歌手、女優として17歳でデビュー。

石野真子の妹ということで話題になりましたが、ヒット曲には恵まれなかったです。

歌手としての活動は短かった石野陽子でしたが、女優としては高く評価され、現在に至ってます。

また、志村けんとの共演で、お笑いのセンスもあることがわかり、石野陽子は姉の石野真子をしのぐ人気者に、1980年代後半から1990年代前半はなりました。

私生活では、姉の石野真子は2度離婚しておりますが、妹の石野陽子は未婚。

交際相手はいても、全く結婚には興味がないそうで、姉妹でも人生観、価値観は異なるようです。

岸部一徳 岸部四郎

岸部一徳は1947年、岸部四郎は1949年、京都で生まれてます。

後に日本中を熱狂の渦に巻き込んだザ・タイガースは、中学時代に岸部一徳と瞳みのるの出会いから始まってます。

1966年に沢田研二を加えたバンド「ファニーズ」は、京都や大阪で高い人気を得ます。

同年の11月に内田裕也にスカウトされ上京。

グループ名は「ザ・タイガース」となり、レコードデビュー。

岸部一徳のデビュー当時の芸名は、本名の岸部修三ではなく「おさみ」。

愛称は、身長が高いのでリトル・リチャード、ザ・ビートルズでお馴染みの「のっぽのサリー」から「サリー」。

ザ・タイガースは瞬く間に人気バンドへ。

批判層含めザ・タイガースは社会現象になるほどで、弟の岸部四郎も勤めていた印刷会社を退職。

ザ・タイガースのバンドボーイになります。

岸部四郎はその後、メンバーとプロダクションの援助で1968年7月に渡米。

留学の名目で音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の音楽特派員として活動。

1969年3月、ザ・タイガースの人気メンバーの加橋かつみが、突然の失踪後、バンドを脱退。

プロダクションは代わりのメンバーを用意してたようですが、ザ・タイガースは学生時代からの友達、仲間で作られたバンド。

知らないメンバーは入れたくないという、メンバーの強い意向があり、そこで岸部四郎に白羽の矢が立ち、兄の岸部一徳の電話で日本に呼び戻されます。

ザ・タイガースの新メンバーとなった岸部四郎も、ここで芸能界デビュー。

ザ・タイガース解散後、岸部一徳も岸部四郎も、ともに音楽活動を続けます。

が、先に音楽をやめた岸部四郎が俳優、タレント、司会業で人気者になり、その後、沢田研二の薦めで岸部一徳も俳優に転向。

今やお馴染みの「一徳」の芸名は、この時、内田裕也の妻だった樹木希林に命名されてます。

時は流れ、2013年12月27日、44年ぶりにオリジナルメンバーで再結成したザ・タイガースの、全国ツアー最終日に、病気療養中の岸部四郎が車椅子で参加。

東京ドーム満員の観客から、拍手を浴びました。

山本學 山本圭 山本亘

山本學は1937年、山本圭は1940年、山本亘は1942年生まれ。

山本學は1955年、俳優座養成所第7期生となった翌年に成蹊大中退。山本圭は成蹊大中退後の1960年、同じく俳優座養成所第7期生になってます。

唯一、末弟の山本亘だけは成蹊大を卒業。

その後、桐朋学園大学短期大(現:桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻し、更にフランス・ジャック・ルコック学校を卒業してから、役者になってます。

山本學と山本圭は、1960年代になると映画、テレビに引っ張りだこの人気俳優になり、映画ファンだけでなく、お茶の間でも高感度の高い俳優になりました。

デビューの遅れた山本亘は、1970年の27歳にしてテレビドラマデビュー、映画はその翌年の1971年でした。

当時は既に兄二人は映画、テレビで大スター、名俳優として名を馳せていたましたが、以降も山本亘はマイペースの活動を続け、今に至ります。

私生活で山本學は、女優の水野久美と1度離婚歴があり、2度目の結婚の長年連れ添った一般女性の奥様は、2007年に病死。

以降、結婚はされてないようです。

かつては屈折した若者役が似合ってた山本圭は、女性囲碁棋士の小川誠子と結婚され、現在も婚姻関係は続いてるようです。

2019年9月現在、山本學82歳。山本圭79歳。山本亘76歳。

今もお三方とも、現役の俳優です。

松方弘樹 目黒祐樹

松方弘樹は1942年、時代劇俳優の近衛十四郎、女優の水川八重子の間に生まれ、弟の目黒祐樹は1947年に生まれてます。

松方弘樹は1960年、東映で映画主演デビューしますが、この頃、父・十四郎はまだまだ現役バリバリの人気俳優。

松方弘樹が映画デビューした1960年、近衛十四郎は「柳生武芸帳」で主役、柳生十兵衛を演じてます。

1965年、フリーになった松方弘樹の父・十四郎は、テレビ進出。

1965~1969年まで続いたテレビ時代劇、「素浪人月影兵庫」「素浪人花山大吉」は大ヒット!

近衛十四郎は、お茶の人気者になり、映画人として、それなりのキャリアを重ねてました。

二世の若き松方弘樹には、父の人気も重圧になってたと思われます。

そんな松方弘樹が、一般的に人気を得るのは、1974年のNHK大河ドラマ「勝海舟」で、病気降板した渡哲也の代わりに、勝海舟を演じた時です。

NHKの全国放送ということもあり、松方弘樹は三十路になってテレビの力で、知名度が一気に上がりました。

弟の目黒祐樹は、二世らしく幼少時より子役として映画出演。

同志社高等学校中退後、ハワイやセントルイスのハイスクール、ボストン大学の演劇学科や南カリフォルニア大学に学ぶも中退し帰国。

役者に戻ってからも、父と兄の人気の重圧も観るものに感じさせることのない、コンスタントでマイペースな映画、ドラマに出演し続けてます。

私生活も波乱万丈だった松方弘樹は、2017年1月、脳リンパ腫のため74歳で永眠。

目黒祐樹は2019年9月現在、72歳。

1981年に挙式をあげた元女優、江夏夕子と今も仲睦まじく生活し、現在も役者を続けられてます。

倍賞千恵子 倍賞美津子

倍賞千恵子は1941年、倍賞美津子は1946年、都電の運転士の父、車掌であった母の間に生まれてます。

姉の倍賞千恵子は1957年、妹の倍賞美津子も1962年、共に松竹音楽舞踊学校を経由、松竹歌劇団(SKD)に入団している、元々はレビューの姉妹でした。

松竹歌劇団のスターになった倍賞千恵子は1961年、松竹にスカウトされ映画デビュー。

1963年、山田洋次監督の「下町の太陽」に主演した倍賞千恵子は、一躍スクリーンでも人気者になり、以降、山田洋次監督作の常連になります。

更に倍賞千恵子は映画挿入歌「下町の太陽」で、歌手デビューもし、日本レコード大賞新人賞を受賞。

歌手としても1963~1966年まで、4年連続でNHK紅白歌合戦にも出場。

20代前半当時の倍賞千恵子は、正に「歌う青春スター」として、多くの国民に支持されました。

一方、倍賞千恵子脱退後の松竹歌劇団は、娯楽の多様化により人気が低迷、1966年に解散。

松竹歌劇団で活躍してた妹の倍賞美津子は1967年、姉の倍賞千恵子の映画で女優デビューしてます。

その後、倍賞千恵子は渥美清の「男はつらいよ」シリーズの、妹さくら役で更に!人気がブレイク。

国民的人気女優になり、今に至ってます。

妹の倍賞美津子も、1960年代後半より松竹の喜劇系映画の常連として活躍。

その後、プロレスラーのアントニオ猪木との「1億円の結婚式」で、時の人になりました。

倍賞美津子は1979年、映画「復讐するは我にあり」で、ブルーリボン賞の助演女優賞を受賞。

倍賞美津子はその後も、個性的な役どころを見事にこなす女優として、ドラマ、映画で名声を博し、現在に至ってます。

長門裕之 津川雅彦

長門裕之は1934年、父に歌舞伎役者から映画俳優に転身した、戦前の大スター澤村國太郎、母に女優マキノ智子の間に生まれ、弟の津川雅彦は1940年に生まれてます。

更に叔父に加東大介、叔母に沢村貞子、祖父には「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三を持つ、長門裕之と津川雅彦の兄弟は、正に芸能一家のサラブレット。

よって、長門裕之は第二次大戦前の少年期から、名子役として広く知られ、戦後、正式に日活入社。

弟の津川雅彦も子役で映画出演はしてましたが、新聞記者志望だったので早稲田大学高等学校に進学。

1956年、原作の石原慎太郎に、石原裕次郎の弟役として見初められた津川雅彦は、高校時代の夏休み中に出演した「狂った果実」で、大ブレイク。

人気絶頂の1958年、津川雅彦は松竹に引き抜かれ日活を退社。

また、そんな弟の津川雅彦、後輩の石原裕次郎に人気が及ばなかった長門裕之も、南田洋子と結婚後、1961年に日活を退社。

石原裕次郎、小林旭映画が絶頂の1960年代の日活映画に、長門裕之も津川雅彦も、実は出演してないのはこういう理由がありました。

しかし、松竹に移籍した津川雅彦の映画はヒットせず、フリーになった長門裕之の出演作品も、当初は大きなヒットにはなりませんでした。

そんな長門裕之に、転機が訪れるのは1963年。

松竹の「拝啓天皇陛下様」での渥美清とのコンビが、高い評判を呼び、長門裕之は再評価されます。

その後、長門裕之は同じく松竹の「図々しい奴」シリーズ、東映の「日本侠客伝」シリーズで、新境地を切り開きました。

名脇役として確固たる地位を築きます。

弟の津川雅彦は松竹で成功に至らず、フリーになっても人気回復はならず。

そんな津川雅彦に転機が訪れたのは、1970年代、テレビ「必殺」シリーズの悪役が高く評価され、再びブレイク。

年齢を重ねるごとに、悪役や女ったらしの中年男役が似合うようになり、一時代を築きました。

長年第一線で活躍したお二人も、長門裕之は2011年5月、77歳没。津川雅彦は2018年4月、78歳没。

渡哲也 渡瀬恒彦

渡哲也は1941年、渡瀬恒彦は1944年、一般家庭に生まれてます。

渡哲也は、青山学院大学へ通うため上京。

弟の渡瀬恒彦と共に下宿していた時、日活が新人を募集。

就職希望の日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になったこともあり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問。

その時にスカウトを受け、渡哲也は1964年に日活へ入社してます。

弟の渡瀬恒彦は、早稲田大学に入学。

電通PRセンターに就職するも研修期間1ヶ月で辞め、先輩が作った広告代理店に移っています。

渡瀬恒彦は休日になると、兄・渡哲也の知り合いの不動産屋を手伝いに行っていたそうです。

そして、そこにたまたま居合わせた、東映の社員に「俳優にならないか?」と声をかけられ、それがきっかけで役者になったそう。

お二人とも俳優養成所とかスクールとか、全く無縁で芸能界デビューしてます。

渡瀬恒彦は、そんな経歴からか?スタントなしの、かなり無茶な仕事も、アクションスターとしてこなしていたようです。

一方、渡哲也はデビュー翌年の1966年、主演した「東京流れ者」以降、順風満帆の人気俳優になるも、会社がロマンポルノ路線に向かうと日活を退社。

こちらも倒産寸前だった、石原プロに移籍します。

その後は、渡哲也はテレビに活路を見出した石原プロの看板スター、重鎮として一時代を築きました。

渡瀬恒彦も東映のアクションスターだけでなく、松竹初出演作になった1978年の「事件」で、ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等で助演男優賞を受賞。

その後は、個性豊かな俳優として、長年活躍しました。

遺作は2017年3月の、二夜連続ドラマスペシャル アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」。

渡瀬恒彦は同年3月14日、胆嚢癌による多臓器不全のため、東京都内の病院で、72歳で永眠されました。

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